2005年

ーーー1/4ーーー この正月


 
大晦日にドカッと雪が降り、年が明けて晴天が三日続いた。久しぶりと言っても良いだろう。一面銀世界の穏やかな正月となった。

 三が日が終わり、腹の回りがもったりとしているのに気が付いた。運動もせずに食べて寝ての生活は、たった三日間でも、はっきりと認識できるほどの贅肉をもたらした。

 家族や客人の送り迎えで車を使ったため、お酒の方は少ない量に押さえられた。この点では健康の被害は少なかったと思う。

 この正月にちなんだ話題を探したら、こんなことしか思い付かなかった。

 サラリーマン時代と違って、日々の労働が自分のペースで作られている現在の生活では、いわば強制的に取らされる正月という休日は、かえって迷惑なくらいである。与えられた自由をもてあます子供のように、やる事が思い付かなくて途方に暮れる。

 もっと時間の使い方が上手にならなければいけないと思う。しかし、年をとるにつれて、心身ともに動きが悪くなり、暮らしかたが不器用になっていくようである。これではイカンと思うが、どうしようもない。




ーーー1/11ーーー 娘と中原中也の詩

 
中三の娘が、国語の授業のレポート課題で詩を選択した。与えられた詩は中原中也の「月夜の浜辺」。娘はこの詩に関連して、自宅にあった中原中也の詩集の中から、「月の光」という詩を引用して比較することを思い立ったようである。何故共通して「月」なのか、そしてこの二つの詩の雰囲気の違いは何処から来るのか、さらに「月の光」の中に出て来る「死んだ児」というのは、二歳にして死別した中也の息子「文也」のことなのか。

 娘からそのような問いを受けたが、私に答えられるはずも無い。しかし、知り合いの詩人佐々木幹郎氏に聞いてみたらどうか、というアドバイスを与えることはできた。佐々木氏は中原中也の研究者としても第一人者である。娘は自分でメールを打って、問い合わせをした。昨年12月中頃のことである。

 佐々木氏から、娘宛に丁寧なご返事のメールが届いた。プリントアウトしたら、A4の用紙に二枚半もあった。

 ある方面で一流とされる人が、とかく素人に対しては素っ気無く、冷たい反応を示すものだということを、私はこれまで何度となく見聞きし、経験もした。だから、この佐々木氏の対応はとても嬉しかった。娘にとっても良い経験になったと思う。良い大人のあり方、一流の人間のあり方を、これほど自然な流れで見せてもらって、娘も感じるところがあったに違い無い。

 佐々木氏の返答には、それぞれの詩の書かれた時期と背景が記されていた。「月夜の浜辺」は文也が亡くなる直前、「月の光」は直後に書かれたとのことだった。従って「月の光」に出て来る「死んだ児」というのは、おそらく文也のことだと思われると。

 娘は自分の予想していたことが的に当ったようで、嬉しそうだった。どんなレポートが出来上がるのかは、まだ分からない。

 ところで、年末に佐々木氏と会う機会があった。私は娘に対して氏が示してくれた親切丁寧な対応にお礼を述べた。それと同時に、疑問に思っていたことを尋ねた。詩が書かれた時期を詳しく特定するには、どのような方法があるのかと。

 佐々木氏の答えによると、いろいろなケースがあるとのことだった。詩を書いた本人が日付けを残している場合は簡単であるが、そうでない場合は、様々な資料を分析して類推するとのこと。この場合、詩の内容は決め手とならない。秋の時期に春の詩を書くというようなことも、よくあるからだ。分析はあくまでも科学的な根拠によらなければならない。

 私が驚いたのは、使われた原稿用紙による年代推定法であった。厳密に調べると、原稿用紙の印刷の歪みやかすれから、年代が類推できるとのことだった。他に、使われた筆記用具の種類やインクの質からも推定されるとのこと。いずれも気が遠くなるような作業であることは容易に想像できる。

 上に述べた二つの詩の初稿が書かれた時期も、そのような方法で推定したものだとのことであった。それは佐々木氏自ら編集委員の一人として手がけた「中原中也全集」(角川書店)の中で初めて公表された。その全集は昨年11月に最後の巻が出版されたが、実に9年がかりの仕事だったとか。

 つまり娘が佐々木氏から教えられたことは、最新の研究の成果だったのである。

 ところで、中原中也の詩の中に「冬の長門峡(ふゆのちょうもんきょう)」という美しい詩がある。年代の話をしているうちに、この詩が実質的に中也の最後の詩であることを佐々木氏から聞いた。中也は息子の文也が亡くなった悲しみから精神を病み、ほどなく入院生活へ入った。その入院直前に書かれたのが、「冬の長門峡」だったというのである。この詩が持つ、美しくしさと共に、なんとも言えない淋しさは、そこから来ていたのだと知って、改めて哀しさが滲みた。

 さらに佐々木氏は、「冬の長門峡」の一つ前に、「夏の夜の博覧会はかなしからずや」という詩があったことを教えてくれた。自宅に戻って、詩集の中にその詩を見た。それは、文也が亡くなる3ケ月ほど前の夏の日に、文也と共に遊んだ上野動物園でのできごとを、文也が亡くなった後に思い出して書いた詩であった。

 私は生涯で初めて、一篇の詩を読んで落涙するという経験をした。



ーーー1/18ーーー 金賞受賞酒

 ある方を自宅でおもてなししたら、数日経ってその方から小包が届いた。中には日本酒の瓶が二本。箱書きには全国新酒鑑評会金賞受賞酒とあった。お礼としてはあまりに過分と思われたが、私をこれほど驚かせ、また喜ばせたという点では、近年希に見るインパクトであった。

 全国新酒鑑評会なるコンペがあり、全国の酒造がしのぎを削って挑戦するという話は以前から聞いていた。そして、名誉ある金賞を受賞した酒蔵というのも、何件か知っている。しかし、金賞を受賞した酒そのものを飲む機会はこれまで無かった。

 以前ある酒造で聞いたことによると、全国新酒鑑評会に出品する酒は、特別に作るものだそうである。材料も製法も、厳選を重ねた最高のものを注ぎ込んで、ごく限られた量を作るという。だから、金賞を受賞した酒というものは、値段も高いし量も少ない。つまり、なかなか手に入り難いものなのである。

 私も酒飲みのはしくれとして、一度は全国新酒鑑評会で金賞を受賞するような酒を飲んでみたいものだと思っていた。それが実現したのであるから、こんなに嬉しいことはない。

 銘柄は岩手県花泉の「磐乃井」。表示にアルコール添加とあるのが少し残念だが、吟醸香を最大限に引き出すための、最低限の量だと解釈したい。猪口に注いで口に運ぶと、甘く爽やかな香りがした。そして味はまるで水のようにあっさりとしていた。東北の酒は淡麗辛口が主流と聞いているが、まさにこれはそのようなもであった。変な言い方だが、酒を飲むという感覚が無い。そしてそのまま陶然と酔わされる不思議さがある。

 ふと、似たような経験を思い出した。東京は湯島にあるシンスケという居酒屋。もう20年以上昔になるが、「東京で一番旨い酒を飲ませる店」との評判に引かれて、友人を誘って飲みに行った。この店の酒は秋田の「両関」。

 これがまた、水のようなものであった。もちろん不味いのではない。ただ、不思議なくらい、刺激が無いのである。酒とはこのようなものかと首をかしげながら、たちまち銚子は二本三本と空いていく。これも一つのマジックのようであった。



ーーー1/25ーーー パブロ・カザルスの演奏

 娘が夕食の後、勉強をしながら音楽が聞きたいと言い、一枚のCDをかけた。普段は槙原敬之などを聞いている彼女が、めずらしくクラシックの曲をかけた。かくして私は偉大な芸術の結晶とも言うべき演奏を、久しぶりに聞くこととなった。

 パブロ・カザルスが演奏するバッハの無伴奏チェロ組曲。もし人から「あなたが一番好きな音楽は何ですか」と、いわば強引な質問をされたとしても、私は迷わずこの演奏を挙げるだろう。私は若い頃、この演奏に救われたと言ってもよいほどのことがあった。

 私が高校3年のとき、両親がレコード屋の店員に勧められて、3枚組のこの曲のレコードを買ってきた。両親も私も、この曲目を聞いたことはなかった。私は、全36曲、2時間にも及ぶ未知のレコードを買って来たことに対して、軽率な行為だと非難した。しかも、無伴奏のチェロの曲という、極めて地味なものである。買ってみたものの、最後の曲まで聞くことは一生の間ないだろうとの気持ちさえした。

 それでも、半ば仕方なく、レコードに針を下ろした。最初の印象は、先入観の通りであった。しかし、数分後には、それは大きな驚きに変わっていた。そのときの感動を表現するのに、私のこのつたない国語力では不可能である。

 私は高3で受験に失敗し、浪人生活に入った。毎日のように、予備校から帰るとこのレコードを聞いた。それこそ、よく飽きもせずと言われるくらい、繰り返し繰り返し聞いたのである。

 中高一貫の受験校への途中入学で、面白い事の一つも無かった高校生活の中で、私の精神は完全に沈滞していた。私にとって高校は、ハイスクールではなく灰色の「灰スクール」であった。そんな無気力、無感動だった3年間を引きずりつつ、次の進路も決まらない、中途半端で不安定な状態だった浪人時代の私に、生きる力と希望を与えてくれたのは、毎日聞いたこの演奏であった。 

 パプロ・カザルスという希代の天才音楽家に対する賞賛の声は、枚挙にいとまがない。古今の高名な音楽家や学者、研究者が、声をそろえたように氏の芸術を褒めたたえてきた。そのなかで、私が今でも心に留めているものがある。指揮者のブルーノ・ワルターが残した言葉である。

「この大音楽家の存在こそは、芸術的見地からも道徳的見地からも、より高い人間の目標にあこがれるすべての人々にとって、霊感と勇気の源泉なのである」 
 



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